メムリ(MEMRI) - 中東報道研究機関 緊急報告シリーズ
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THE MIDDLE EAST MEDIA RESEARCH INSTITUTE

緊急報告シリーズ


 
Special Dispatch Series No 134 Oct/4/2017

握手の裏に―オスロ合意とアラファト
イガル・カルモン*

オスロ合意の24周年にあたり、MEMRI会長で創立者のイガル・カルモンがアメリカで発行されているコメンタリー誌に寄稿した記事を、ここに再録し紹介する※1。

イスラエルとPLOが(1993年8月)オスロで到達し、1ヶ月後(多少の整正を加え)の1993年9月13日ホワイトハウスで調印した合意は、極秘裡に交渉された。これまでこの秘密交渉には、一部が選択的に明らかにされただけである。しかも、これを歴史的勝利と見る当事者或いは支持者の口から語られただけである。しかし、もっと枠を広げてみると、全く違った状況が見えてくる。私が提示するのがこれである。

………

PLOの幹部達がイスラエル人と会ったのは、オスロが最初ではない。1970年代から、シンポジウム、会議或いは対話♂合が、オープンないしは秘密裡に世界各地で開催された。主催者もさまざまで半官組織もあれば、国連がバックについていることもあった。普通開催地の国の人も参加した。時間がたつ内に、イスラエルの法律では、PLOメンバーとの許可のない直接的接触は禁じられていたが、それでも会っていたのである(この法律は、1992年に労働党が政権の座について間もなくして、廃止された)。

スカンジナビア諸国は、PLOとイスラエル・ユダヤ側との出会いにホスト役をつとめるのに、とても熱心なように思われた。パレスチナの大義を執拗に語るPLO、イスラエル側は平和活動家∴スいはハト派のアメリカ系ユダヤ人である。その一例が、1988年にストックホルムで催された会合で、リタ・ハウザーとメナヘム・ローゼンサフトを含むアメリカ系ユダヤ人グループがヤセル・アラファトに会い、PLOとの対話の道を開いた。それは、レーガン政権の末期に始まる。

その対話は、アラファトが1990年5月のテロ事件(PLO主流派が起したテルアヴィヴ海岸のテロ)の非難を拒否したため、中断した。ワシントンは、このテログループがイスラエル人だけでなくアメリカ大使館も攻撃対象にしていたことを知り、特に腹をたてた。しかしながら、アラファトがこのグループの指導者アブ・アッバスと縁を切ることを拒否した時、アメリカ政府と違ってイスラエルの平和陣営≠ノはこたえなかったのである。イスラエルのハト派は、引続きPLOと世界各地で接触した。1時間の番組にされた対話集会もある。これはPBSが広く流した。

この種会合ではさまざまな組織がホスト役をつとめたが、シンクタンクのFAFO(ノルウェーの組織で応用社会科学研究所)が特に熱心であった。1992年の初夏、所長のラルセン(Terje Rod Larsen)が、ヨッシ・ベイリンと接触した。当時ベイリンはイスラエルのECF(経済協力基金)の責任者で、労働党大幹部のひとり、シモン・ペレスの側近のひとりであった。ラルセンはベイリンに、パレスチナ人がインティファダに疲れ果て協定を結ぶ用意ありと言っている、と伝えた。今後の選挙で労働党が勝利するなら、この機会を見逃すべきではないというのである。ベイリンはラルセンに、自分の友人ヤイル・ヒルシュフェルド教授を紹介した。教授は、アラブ・イスラエル紛争に愚かしい程楽天的だったオーストリアの故ブルーノ・クライスキー首相、を尊敬するファンであった。

1992年の選挙で労働党が勝利し、イツハク・ラビンが首相、シモン・ペレスは外相となった。そしてペレスはベイリンを外務次官に任命した。一方ラルセンの方は(妻がノルウェーのホルスト外相(Johan Jorgen Holst)の事務担当補佐で、外相自身の妻はFAFOの首席であった)、このような陣容でノルウェー政府が仲介の労をとる、とベイリンに言った。ホルスト自身は、イスラエルとPLOの平和樹立のアイディアにとりつかれた$lとして知られていた。これ程都合のよいアレンジはない。

ベイリンは、PLOがまだ非合法の存在として扱われていたので、直接正式に相手側と会えないとし、ヒルシュフェルドとかつて自分の学生だったロン・プンダクを代理にたてる旨、ラルセンに伝えた。ロンは、デンマーク出身のイスラエル人研究者であった。つまり現段階では知識人レベルの対話にとどめるわけである。

PLOは、ヒルシェフェルド・プンダクのペアを、それ程重要視しなかった。しかし、この組織のスポークスパーソン(彼女の家にイスラエル側がよく訪れた)ハナン・アシュラウィは、イスラエル側がシモン・ペレスの側近中の側近で次官でもある人物に直結していることに気付く。そこでアシュラウィは、PLOの財務相<Aブ・アラとの会合を設定した。場所はロンドンで、イスラエル・PLO協定の原案をつくろうということになった。ヒルシュフェルドは、オスロで話を続けたいと提案し、PLO側は同意した。

プンダクとヒルシェフェルドは、PLO側に政府がいつ接触責任を否定するか判らないと強調していた。ところが、これが逆にPLO側を確信させることになる。彼等は、イスラエル側対話者が政府を代表していると思ったのである。しかし実際には、ヒルシュフェルドとプンダクはベイリンとしか接触しておらず、政府では接触を知る者はひとりもいなかった。ベイリンがどの段階で接触をペレスに報告したのか、不明である。

はっきりしているのは、ラビン首相が少なくとも1992年12月まで、全く何も知らなかったことである。つまり、オスロの交渉者達が合意文書を手に登場した時である。ベイリンによると、この文書は1993年8月の基本原則宣言と基本的に同じである。即ち、イスラエルはほぼ完全にガザ回廊とエリコから撤収し、その後パレスチナ側の自治がウェストバンク全体に拡大されることになっていた。

………

同じ月の1992年12月、ラビンと参謀総長エフード・バラク中将が、ハマスとイスラム聖戦の活動家415名のレバノン追放を決めた。この追放は、(イスラエルの軍と警察に対し攻撃を仕掛ける、この戦闘的原理主義組織によって、挑発をうけた)、期待した効果はなかった。世界のメディアが被追放者に同情し、イスラエルには戻せという圧力がかかった(ラビンはすぐに圧力に屈した)。追放はハマスのみならずPLO(アラファト派のファタハを含む)も勇気づけ、益々テロに励むようになる。

3月末になって、ラビンは自分が微妙な立場にいることを確信した。選挙で首相になってから15ヶ月たち、6〜9ヶ月の内にパレスチナ人と自治合意に達すると公約していたが、平和プロセスは全然進んでいなかった。ワシントンにおけるアラブ代表団との協議は―1991年10月のマドリッド平和会議の後をうけ、前任者のイツハク・シャミールによって始められ―中断していた。テロが頻発し、1993年の暗黒の3月≠ニいわれる状況になった。イスラエル史上最悪の月のひとつであった。ハマスの追放者は大衆に英雄視され、世論でラビンの支持率は最低となった。

ラビンは、このような状況にある時、オスロ合意について遂に報告をうけた。彼は中止を命じる代わりに、続行を指示した。法律上からいえば、彼は国法に違反しているのである。内閣の承認がなければ、PLOとの公的接触はできない。内閣の承認はなかった。政府の閣僚達は、交渉にも全然気付いていなかった。

4月末、ラビンは、オスロのPLO代表に権限があるのか信用できるのか、テストすることに決めた。オスロでたまたま(全く偶然であった)難民に関する多国籍協議が開催される予定で、ラビンはPLO代表の欠席を要求したのである。その要求通りPLO代表は出席しなかった。彼は成程と思った。しかし、同時に相手の思惑に疑問も抱いた。多国籍協議に代表を送ることより、イスラエルの首相の特別要請の方が、組織を認める徴候という意味でPLOにとって重要、と判断したに違いない。いずれにせよラビンは、PLOの最高幹部が関与している証拠、と考えた。

イスラエルと世界のメディアは、PLOの譲歩を驚きを以て歓迎することになる。多国籍協議のパレスチナ代表は微笑をたたえながら、会場を去り、アブ・アラは―協議参加者ではなかったが―テレビカメラの前で、大成功と胸を張った。この気分の高揚は、ラビンがPLOを交渉相手として認めただけでなく、秘密交渉に外務省高官―ウーリ・サビル事務次官―が初めて参加した事実に起因する。

この秘密協議は、ラビンの全面的同意を得て進められた。これからは、米・イスラエル関係の専門家であるサビル(ニューヨーク総領事をつとめたことがある)が、交渉担当となる。サビルは、PLOのことを余り知らなかった。それに、ワシントンの著名法律事務所にいたイスラエル人弁護士ヨエル・シンガーが加わった(後にシンガーは外務省の法律顧問になった)。秘密は完璧に守られた。秘密を知る者は、交渉担当者以外、ペレスの事務補佐アビ・ギル、ベイリンの補佐シュロモ・グルだけであった。秘密を守るため、彼等は秘書の手を借りず、タイプ、航空チケットの予約その他、交渉に関わることを全部自分達だけでやった。PLOがハイレベルの交渉が進行中と盛んに宣伝していたにも拘わらず、秘密が全然洩れなかったのは、大したものである。PLOは日頃から虚言、誇張が多かったので、イスラエルの否定を世界は信じたのである。

ベイリンの回顧によると、当時イスラエル側は、ワシントンにおける和平協議に参加する公式代表団が、合意文書に署名するとし、自分達はその原文をまとめるため交渉中と考え、パレスチナ代表にはPLOは正式には含まれない、と思っていた。イスラエル側は、PLOの役割は舞台裏での同意だけ、と考えていた。基本原則宣言がオスロで承認される僅か5日前の8月15日、閣議の席上ラビンは、イスラエルの分子=i所謂平和陣営≠フ大臣やハト派の政治家)が、PLOと距離をおくワシントンの政策に水を差さぬように願う、と言っていたのである。

8月20日、ノルウェー政府のゲストハウスに、ホルストを初め少数のノルウェー関係者が、ペレス、ギル、サビル、シンガー、ヒルシュフェルド及びプンダクを迎えた。相手側はアブ・アラトとその補佐達で、ここで署名式が行われるのである。彼等は、国の歴史上最も重大な外交局面に立会うわけであるが、アラブ問題の専門家どころか、国防軍と情報機関の誰ひとりとして知らず、知らされず相談もうけずに、この日を迎えたのである。確かにラビンは逐一報告をうけ、その内容にざっと目を通してはいた(もっと後になって気付き、公けにそれを認めるのであるが、文書は、手付かずの問題が山ほど≠った。後年ラビンは、「オスロの法的定式化はいい加減」とし、「決定的に重要なのは現場の現実である」と述べるのである)。

サビル、アブ・アラそしてホルストが乾杯の音頭をとった。オスロを公式訪問したペレスは、ホテルをこっそり抜け出して、式の会場へ行った。しかし彼は、PLOとの合意署名にまだ積極的に関わりたくない気持であった。署名したのはサビルとシンガー、PLOはアブ・アラと彼の補佐ひとりであった。そしてその日、合意の未来を暗示するかの如く、イスラエル兵9名がレバノン国境で殺された。

………

ラビンが、PLO・チュニス=iレバノンからチュニスに移った組織をそう呼んでいた)との合意を認めたことは、世界を驚かせた。しかしラビンは、当初このような合意に達することは無理と考えてはいたが、PLOとの接触は有用とみていた。イツハク・シャミールを首班とする挙国一致内閣時代ラビンは国防相であったが、シャミールにパレスチナ問題について、よくアドバイスした。「地元のパレスチナ人指導者には、好きなだけチュニス参り(非合法行為であった)をさせたらいい。彼等は、我々に一杯くわせると考えるだろう。しかし、実際は違う。我々は菅地区住民と到達しなければならぬ合意をPLOに認めさせるため、彼等を使うのである。このような認知がなければ、何も動かない。このやり方なら、PLOとの直接交渉や合意履行へのPLOの参加なしで、我々は進めていける」と主張していた。

しかし、PLOが一枚上手だった。ラビンがこの方式をオスロ協議に適用した時、これが明らかになる。ラビンは、「合意の真価が問われるのは、ワシントンにおける和平協議代表団が署名する時」とはっきり言った。つまり、署名するのはPLOであってはいけないのである。ラビンは閣僚達にこの戦術を次のように詳しく説明した。

長い間私は、管理地区のパレスチナ人住民達が(交渉)能力を発揮する、と信じてきた。しかし1年間彼等と話合った結果、私は、彼等ができないとの結論に達した…(オスロ)協議が、必ずしも管理地区住民とは限らぬパレスチナ人と行われているのは、そこに理由がある。しかし、合意署名は(ワシントンにおける和平協議)代表団と我々との間になる。

ベイリンも、ワシントンのパレスチナ人代表団(和平協議代表団)とPLOをはっきり区別した。イスラエル抹殺条項をパレスチナ民族憲章から削除していないのに、そのPLOと合意文書に調印できるのかと質問され、ベイリンは「代表団(ワシントンの)はPLOではない。質問は見当違いである」と答えた(しかしこの発言は、労働党がシャミール政権を批判した時の見解と矛盾する。シャミール政権が、表看板だけで実質はPLO≠フ代表団と交渉し、PLOに交渉のドアを開いてやった、と労働党は批判したのである)。

ベイリンの説明によると、「オスロでPLOと合意した事実を明らかにしないで、合意文書をワシントンのパレスチナ人代表団に示す」のが当初の意図であった。しかしその時点で話がばれていた。恐らくノルウェー側がリークしたのであろう。ノルウェーは選挙間近であった(ホルストの党が勝利した)。そして、ワシントンのパレスチナ人代表団の団長シャフイ(Haidar Abel Shafi)は、PLOと連絡調整して行動しているのは判っているのであるが、署名を拒否した。つくった者が署名すればいいじゃないか、とシャフィは言った。

ベイリンは、イスラエルのテレビが、シャフィが署名を拒否すればどうなる、と疑問を呈した時、「彼に構う必要はない。署名する人間を見つける」と答えた。しかし、パレスチナ人代表団の誰ひとりとして署名する者はいなかった。そうできるのはPLO・チュニスだけなのである。この基本的な点がラビンの頭から抜けていたようである。

彼が気付かなかったことがまだある。マドリッド会議の前、ファイサル・フセイニ(パレスチナ代表団の非公式団長で、エルサレムの住民だったが、シャミール政府によって正式の交渉担当者という肩書を否定された)が、アメリカのジェームス・ベーカー国務長官に、合意が成立しても調印するのはPLOだけ、代表団ではないと言ったのである(フセイニ自身この情報を意図的にヘブライ語紙マーリブにリークしたようである)。

ラビンは、管理地区住民180万の代表(選挙で選出されたわけではないが)に署名して貰いたいのにそれができず、どうするか決めなければならなくなった。この歴史的瞬間≠消してしまうか、PLO・チュニスと合意するかである。この組織は、パレスチナ国の亡命政権との自己認識を持ち、世界の大半もそう考えていた。

ラビンは、あとに引けないと考えたようで、署名を選んだ。この段階で、彼の元の政策に戻って考えれば、PLO・チュニスと交渉せずとの公約を破るのである。(時間、努力)に対する見るべき成果がない状態ではある。下手をすれば、イスラエルの彼にとって政治的破滅である。といって彼はその代償を払う用意もなかった。

ラビンは、PLO承認をもっと見えよくするため三つの最低条件をつけた。イスラエルの最左翼のハト派でも、PLOとの交渉に先行する条件としていたのである。パレスチナ人はイスラエルの存在権を認める、PLOはテロリズムを放棄する、PLOはイスラエル壊滅条項を憲章から削除する、である。

こうして初めて、本腰をいれた交渉が始まった。この後の10日間で、彼等は結果をだしたように思われた。イスラエルとPLOは相互に承認し、アラファトは憲章変更を約束し、PLOはテロリズムを放棄し且つ非難することになった。皮肉な話であるが、シャフィに署名する気があったのなら、このような状況に発展することはなかったであろう。しかし、そうであるとしても、PLOはその前に得たいものは手にしていた。イスラエルによる承認である。PLOは既にそれを手にし、イスラエルが要求するのは全然与えなかったのである。

………

イスラエルは、PLO憲章の無効$骭セを要求した。PLOは、憲章そのものには、手をつけず、宣言のなかで、攻撃的、敵視条項は今や無効にして最早効力を喪失≠ニ表明するだけにとどめた。違いは微妙である。しかし、その気になれば、約束履行の拒否はできる。徹底的に否定すれば、パレスチナ人の間では、単なる所見と読まれる可能性もある。

イスラエルは、武力闘争≠フ中止も要求した。これは、PLO式の婉曲表現で、テロ活動のことである。聖なる目的のための聖なる手段というわけである。PLOはこの中止を頑として拒否し、持ちこたえた。イスラエルは蜂起の終結宣言も求めた。PLOはこれを祝福されたインティファダ≠ニ呼ぶ。この要求もあっさり拒否した(或るPLO幹部がヘブライ語紙ハアレツに語ったところによると、イスラエル側は、暴力的なことしか触れず、インティファダの終結を求めなかった)。

ペレスは、相互承認の書簡をアラファトとラビンの間で交換すべきであると主張した。それには、パレスチナ人民にテロリズム放棄を求めるとするアラファトの公約、が含まれるべきである、と強く要求した。しかしペレスは、説得されてしまう。アラファトが、イスラエルとの合意でパレスチナ人民に呼びかけるのは、見っともないというのである。このようなことは、ノルウェーのホルスト宛書簡で表明されるべきとし、ペレスはそれを受入れた(ホルストは4ヶ月後に死亡した)。

アラファトのラビン宛相互承認書簡には、テロ活動中止命令に従わぬPLOメンバーの処罰公約、が含まれることになった。これは、イスラエル側ではなくアメリカのクリストファー国務長官の要求であった。PLO禁制を議会で撤回するために必要と考えたのである(ペレスは急拠アメリカへ行き、土壇場になってから合意に対するアメリカの後援を求めた。しかしクリストファーはイスラエルの要請を丁重にことわり、その理由を「ノルウェー人達が後援しているから」と新聞に語った)。

PLO執行委員会が基本原則宣言を承認すると、ペレスとPLOのアブ・マゼンがワシントンの国務省で署名する筈であった。しかしPLOは、アラファトがホワイトハウスに入る絶好の機会と考えた。クリントン政権は外交政策で成果をだすことに躍起となっており、このアイディアに飛びついた。イスラエル代表団を率いるのは、ペレスよりラビンがよいとし、ラビン招待を提案したのである。当初ラビンは行かないと言っていた。しかし、クリストファーが電話をすると(安息日の午前6時であった)、ラビンはすぐに態度を変えてしまった。これでアラファト(合衆国では正式には指名手配中のテロリストであった)は、政権の長としてワシントンへ来ることが可能となった。アメリカがこの構想を受入れたにしては、アラファトはそれに足る準備はしていなかったに違いない。彼の使用航空機は、サッダム・フセインが寄贈したもので、まだイラクの塗装がしてあった。イラク機はアメリカでは飛行禁止になっていたので、大慌てでアルジェリアの塗装に変えられた。

9月13日午前6時、アフメド・ティビーイスラエル国籍のアラブ人婦人科医でアラファトの政治アドバイザー(二重忠誠の典型であった)―は、ボスからの電話で目が覚めた。ティビによると、アラファトは「考え事をして、一晩中ねむれなかった」と言った。そして、「PLOが(ワシントンの公式代表団ではなく)、合意文書にパレスチナ側の代表と書かれていなければ、私は署名しない」と言った。

ペレスは、アラファトの最後通牒を耳にして、最初ワシントンを去ると威嚇した。しかし、ティビによると、すぐに妥協案が生まれた。アブ・マゼンが、文書でパレスチナ代表団≠ニいう文字がある個所にPLO≠ニ書くのである。ティビによると、アラファトは、ペレスがこの妥協≠のんだ―妥協というより、イスラエルの降伏であった―と聞いた時、狂喜した。信じられぬと思ったのであろう。「彼等が同意した?本当に確か?」と何度も聞き直した。「御本人(ペレス)が私の傍にいます」とティビが答えると、アラファトは「では、君の頭に二回キッスを送る」と言った。ティビは式典出席のため急いで着換えた。

その式典であるが、イスラエルが約束をとりつけていたことがひとつある。つまり、アラファトは軍服着用武器携帯で出席することはないという点である。チュニスでアラファトは、軍服着用のうえ銃を持って飛行機に搭乗した。しかしホワイトハウスには銃を携帯せずに現れた。しかし軍服は着たままである。イスラエル人達は緑色のスーツと呼んだ。

結末からみれば、次のようになる。つまりラビンは、成功したようにみえるものを手にしたいと必死になって、今や手玉にとりやすい標的になってしまったのである。アラファトは、交渉を泥沼状態につき落したり、イスラエルを合意に調印できるパートナーではないと否定したり、何とか成果をだそうとするラビンを翻弄した。そしてアラファトは、ラビンに、(テロリズムにかかわる)タブーを破り、越えてはならぬ一線を越えさせてしまった。そしてアラファトは、泡沫の如くすぐに消える約束を、ラビンに受入れさせた。

例えば、PLOが武力闘争≠ニインティファダの終結宣言を拒否した時、失望したイスラエル側は、これをアラファトは面子を保つ必要≠ェある、と善意に解釈した。一種の合理化思考である。ホルストに対する公約は、事実上暴力に終止符を打つことを意味する、と解釈した。しかし、管理地区に対するPLOのメッセージは多々あり、イスラエルの解釈とは違う。ガザの活動家に対する1月のメッセージで、アラファトはインティファダの継続また継続、続行≠誓うのである。それは現実場面で裏書される。合意成立の後も、インティファダ活動或いはテロリズムが減少することはなかった。

アラファトは、ホルスト宛書簡でも、基本原則宣言が正式に調印され次第直ちに、暴力否定のアピールをする、と約束した。ノルウェー人、イスラエル人そしてアメリカ人が、ホワイトハウスの芝生で行われた式典で、調印後のスピーチでアラファトが、それに触れると期待したのは無理もない。筋が通っている。この式典を取材したイスラエルテレビの論説委員エフード・ヤアリは、この魔法の言葉がいつアラファトの口から発せられるか、固唾をのんで見ていた。ひとつのセンテンスが終る度に、「これからテロリズム放棄に触れるでしょう…次はテロ非難でしょう…今度こそ…」と言い続けたが、とうとう聞くことができないまま、スピーチは終り、ヤアリは、「彼は一言も触れませんでした」と報じ、意気消沈してしまった。

アラファトは、PLO憲章の修正履行日程も決めなかった。公約していたのである。このような変更を批准するためには、PLO議会¢ヲちパレスチナ民族評議会(PNC)の3分の2が必要だが、それだけの人数を確保できるとも思えなかった。いずれにせよアラファト自身が、憲章の変更を求める意図はない、と言い続けるのである。アラファトの盟友ジアド・アブ・ザィヤドは、「我々に憲章の一部破棄を求めるのは、我々がそちらに聖書の破棄を求めるのと同じ」と言った。

………

アラファトはメディアにフォローされた。調印当日、一日中追いかけまわしたわけであるが、報道しなかったことがある。まさに当日アラファトは、ヨルダンのテレビを通して、パレスチナ人向けに話をしたのである。彼は、テロリズムの中止や平和、或いはイスラエルとの共存について、一切口にしなかった。彼が語ったのは、この協定は1974年計画の第一歩≠ニする位置づけである。アラブなら全員が判っているように、1974年計画は、イスラエルの段階的壊滅として知られる。

彼は説明するまでもなかった。自分の視聴者がその意味を理解していると、自信を以て言えるからである。彼はその具体化の足掛りを手にしたわけで、その足掛りで、ガザ、ジュディア・サマリア(ウェストバンク)を領土としエルサレムを首都とする独立するパレスチナ国をつくる。これを足掛りにすれば帰還権%ャ争の継続が容易になる。100万から200万のパレスチナ人を1967年以前のイスラエルへ帰還≠ウせる計画である。彼等は、その領域を自分達の郷土とまだ考えているのである。

イスラエルは、どの政府も、如何なるハト派も左派も、このような成行きは受入れることができない。そしてどのPLOも(自治という暫定期間に関する協定事項があるにも拘わらず、期間後の)完全な主権の獲得を待つ意図を持っていない。つまり、今後起るのは、早い段階で取引が空中分解するということである。双方が遮二無二かきたてた非現実的期待感は砕け散り、イスラエル人とパレスチナ人双方に、苦い失望と怒りの反応をもたらし、平和をもたらすどころか、血みどろの対決をもたらすだろう。

*イガル・カルモンはMEMRIの創立者で会長

※1 1994年3月1日付コメンタリー誌(アメリカ)


 

 

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