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THE MIDDLE EAST MEDIA RESEARCH INSTITUTE

調査および分析シリーズ


 
Inquiry and Analysis Series No 229 Jun/28/2005

イランの第2次イスラム革命―保守派の選挙勝利がもたらした成果
・サヴィヨン

保守系人士のアフマディネジャド(Mahmoud Ahmadi-Nejad)がライバル候補者である元大統領ラフサンジャニに決戦投票で押し勝ったことは、国際社会のみならず当のイランにも不意打ちの出来事であった。決戦投票でアフマディネジャドは約1700万票を獲得(得票率約62%)、一方のラフサンジャニは1000万票(同33%)であった。投票数は2750万、投票率60%であった※1。

この選挙結果によって、アリ・ハメネイを初めとする保守派の第2次イラン革命≠ヘ成った。これに先立ち、軍部、法務及び宗教機関は既に保守派の手にあった。2年前の市議(地方)選そして今年初めの2004マジリス(国会)選挙で勝利し、今や保守派はあらゆるレベルで権力の中枢を支配するに至った。改革派はひとりとしてトップのポストに残っていない。

改革派の選挙ボイコットと第2次イスラム革命

第2次イスラム革命≠ヘ、ひとつには過去2年間における改革支持層の投票パターンに起因する。つまり、個人の生活や政治的自由等の面で改革派はさまざまな約束をした。しかし、その改革運動は約束を果せず、これに反撥した支持層が抗議して選挙をボイコットしたのである。選挙ボイコットの形による改革派の政治抗議と並んで、改革支持層有権者は失望し、疎外感を抱き、無関心になった。特に保守派がさまざまな手段を使って弾圧しているので、もうどうにでもなれという気持に傾いている。

その弾圧手段には次のものが含まれる。

1、過去4年の間に100種程の改革派新聞を発行停止にした。

2、体制批判の科で、ジャーナリストを投獄した。

3、対米関係の改善、再建を求めている改革派を国家反逆罪で告発した。

4、改革派候補者(現役議員を含む)を立候補資格に欠けるとして受付を拒否した。

 その結果、さまざまな学生団体と知識人団体が、大統領選挙のボイコットを発表した※2。

2003年2月の地方選挙、2004年2月の第7期マジリス(国会)選挙で、投票率は僅かに50%ほどであった。改革支持層有権者は、イランの護憲評議会が改革派候補者を大量に失格させたため、そして又テヘラン市長墜落としに保守派がとった司法措置もあって、投票しなかった※3。

貧困層の投票と第2次イスラム革命

 大統領選挙における有権者の抗議パターンには、あとひとつ貧困層にもみられる。1回目投票に続いて、改革派政治陣営と改革派新聞を中心にラフサンジャニ支持キャンペーンがあり、大量支持がみられたにも拘わらず、貧困層はラフサンジャニ支持を拒否した。カロウビ(Mehdi Karroubi)やモイン(Mostafa Mo`in、本人はカリバフ(Mohammad Baqer Qalibaf)と共に1回目投票でドロップアウトした)といった改革派政治家は、ラフサンジャニ支持を表明した。更に、イスラム参加フロント、イスラム共和制ムジャヒデーン組織、戦闘的聖職者協会、コムセミナリー教師連合といった改革派運動のメンバー、更に又、エスファハニ(Taheri Esfahani)のようなアヤトラ、知識人、ジャーナリストそして芸術家までラフサンジャニ支持を全員で呼びかけた。しかしながら、貧困層は圧倒的多数がアフマディネジャドに投票した。

ラフサンジャニは、イスラム革命の父たるアヤトラ・ホメイニ(Ruhollah Khomeini)の同盟者であったし、億万長者で政治力もある政治家であるが、イランの貧困層からは現在の腐敗政権と同じ穴の狢、とみなされていたようである。6月下旬には選挙公約で失業者全員に月額100-135ドルの失業手当を支給すると公約したが、貧困層、失業者及び改革支持層を説得できなかった※5。

対照的なのが保守派候補のアフマディネジャドである。体制側の組織―革命防衛隊とバシジー(抵抗−前身は1980年編成の徹底抗戦隊)のとりこみに成功した。更に全国のモスク網を使うこともできた。そこでは金曜説教時に、アフマディネジャドへの投票が呼びかけられた。

アフマディネジャドは、清潔を前面に押しだした。イラン政府全体に蔓延している腐敗と戦う、という振れこみである。これに加えて、彼の社会・経済計画は、法の尊重、イスラム的倫理観、社会正義、公正、廉直、謙虚(いずれもイスラム革命の諸原則に準じている)を強調している※6。

アフマディネジャドのもうひとつのアプローチが、民心、世情に通じているという姿勢である。その一例が、退陣するハタミ大統領との口論である。2005年4月下旬、ハタミ大統領はテヘラン大学の名誉博士号授与式に遅れた。自分が受ける立場にあったが、ハタミ大統領はテヘランの交通渋滞を非難し、参会者達に「市の運営責任者は、きちんとした義務の遂行ができない…市の運営ができない者に代って皆さんにお詫びする」と言った。それに対して当時テヘラン市長であったアフマディネジャドはハタミにバス利用≠すすめ、ハタミ大統領が富裕層の住む首都北部の洒落た高級住宅地へ移らず下町の事務所にとどまっていたら、住民が直面する日々の問題を、もっと身近に考えられる筈とし、「交通渋滞がどういうものか直接経験し、身近な問題として理解していただくため、少なくとも一回味わって貰えたのは嬉しい限り」とやり返した※7。

革命防衛隊の変化―革命中間世代≠フ勃興

アフマディネジャド、マジリス(国会)議長ハダッド・アデル(Gholam-Ali Haddad-Adel)は、革命の理念に忠実なイスラム革命中間$「代に属する。革命政治機構の整備期に成長した世代で、旧世代≠フ者と違って、聖職者ではない。アフマディネジャドは革命防衛隊指揮官のひとりであったが、マジリスの保守派から支持され、有力保守党であるイラン啓発者連合(Abadgoran)の支持も得ていた※8。

国家運営の重要ポストも、今や中間世代≠フ保守派に占められている。イランの最高指導者ハメネイ師は、政権は両翼¢ヲち保守派と改革派を基盤にすると言った。しかし数度に及ぶこの声明にも拘わらず、政府省庁、諸機関はすべて、保守派の手中にある※9。保守体制は、ラフサンジャニやカロウビといった創立世代のメンバーよりも、体制の機構の中で育った者を選ぶように思われる。

イランの改革派は、たとい名目上の主要ポジションであっても、ハタミ大統領の退陣によって、それも失ってしまう。

選挙の不正工作はあったか?

不正工作に関しては、三つの疑問点がある。

(1) 謔P回投票後の6月18日朝、保守系日刊紙カイハン(Kayhan、ハメネイ師に近い新聞)は、アフマディネジャドとカロウビが接戦と報じた。開票結果の正式発表はその日の夕方になっておこなわれるのに、何故カイハン紙が事前に知り得たのであろうか。

(2) アフマディネジャドの得票数は第1回投票で570万票。第2回は1700万票を越えた。この激増はどこか胡散臭い。

(3) 第2回投票でアフマディネジャドがとった票数(1700万票)は、保守陣営全体による投票数(1140万票)より600万票近くも多い※10。

アフマディネジャドの略歴

テヘラン南東のガルムサル生まれの49歳。

8人兄弟の4番目。父親は鍛冶職人。アフマディネジャドが1歳の時一家はテヘランへ引越した。

1980年、革命学生集会で活躍。この集会がイスラム革命をもたらした。1980年にイラン・イラク戦争が勃発すると従軍し、西部正面で戦った。

1986年、革命防衛隊に入隊し、イラクのキルクークで秘密作戦に参加。後に革命防衛隊第6軍の工兵総監、革命防衛隊西部方面軍参謀長となった。

1987年、科学技術大学から交通・運輸工学及び計画の分野で工学博士号を授与された。

1980年代には4年間西アゼルバイジャン州の二都市(マークー、クボイ)で市長、クルディスタン州知事の顧問を2年間勤めた。

1993年、文化省の顧問として働いている時、アルダビールの北西州の知事に任命された。3年間の在任中模範知事≠ノ選ばれた。

1997年、知事としての任期切れと共に、科学技術大学の土木工学部科学評議会理事に任命された。2003年にテヘラン市長に選出されている※11。


※ 1 IRNA. June25.2005

※ 2 MEMRI Inquiry and Analysis 226、2005年6月16日付を参照 http://www2.memri.org/bin/articles.cgi?Page=countries&Area=iran&ID=IA22605#_edn28

※ 3  第7期国会選挙で護憲評議会は、2000人を越える改革派候補者を失格させた。失格されられた候補者のなかには、現職議員も何名かいた。数年の間に保守派が改革派のテヘラン市長をあいついで攻撃し、金まみれで腐敗していると非難、結局いずれの市長も退任を余儀なくされた。この一連の措置で、2003年の市議会選挙で、得票率は15%となり、結局保守派のアフマディーネジャドが市長に選ばれた。

※ 4 Aftab-e-Yazd, June 22,2005.

※ 5 Iran, June 22,2005.

※ 6 Sharq, June 20,2005; Aftab-e Yazd, June21,2005.

※ 7 Iran Daily, May1,2005.

※ 8 Sharq, June 21,2005.

※ 9 MEMRI Inquiry and Analysis 226を参照

※ 10 第1回投票の票数はアフマディネジャド570万票、カリバフ400万票、ラリジャ ニ170万票合計1140万票。この第1回投票でラフサンジャニは約600万票を集めた。カロウビ500万票、モイン400万票で、メフラリザデーの得票は120万。第1回投票では改革派の得票数は1600万票。これと対照的に第2回投票でラフサンジャニが集めたのは僅かに1000万票であった。

※ 11 Aftab-e Yazd, June 26,2005. アエレト・サヴィヨンはMEMRIのイランメディア調査プロジェクト長


 

 

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