メムリ(MEMRI) - 中東報道研究機関 緊急報告シリーズ
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THE MIDDLE EAST MEDIA RESEARCH INSTITUTE

緊急報告シリーズ


 
Special Dispatch Series No 848 Jan/17/2005

アル・ハヤート紙の調査報道:ヨルダンのアル・ザルカー市は同国のサラフィー・ジハード(イスラム過激原理主義)運動の温床である

ロンドン発行の日刊紙アル・ハヤートは、ヨルダン、とりわけアル・ザルカー市(以下ザルカと略す)のサラフィー・ジハード運動に関するハゼム・アル・アミンHazem al-Amin記者の三部構成の調査報道を掲載した。同市は、イラクのアルカーイダ指導者アブムスアブ・ザルカウィAbu Mus'ab Al-Zarqawiの出生地である。

第一部は2004年12月14日掲載された。ここでアミンは、ザルカウィとともに戦ったザルカの出身のジハード戦士との会見の印象を概観した。

翌15日掲載の第二部は社会的政治的下部構造を取り扱った。アミンはここで、ザルカがイスラム過激主義の風潮台頭に果たしたユニークな貢献を伝えている。

以下は第一部と第二部の抜粋である(注1)。

ザルカは若者を最も多くイラクのジハードに送った

u調査報道」によると、「ザルカ近郊にアル・ルセイファ・パレスチナ難民キャンプがある。同市はヨルダンにおけるサラフィー・ジハード運動の発祥地であり、首都である。ザルカウィは同市で育ち、ここからアフガニスタンのジハードに出発し、その後イラクのジハードに向かった」。同様に、ザルカ、アル・ルセイファ、アル・サルトといった都市は、「若者を最も多くイラクの戦いに送ったヨルダンの都市であり・・・イラクで死亡した、よく知られたザルカ出身者は、ザルカウィ、アブド・アル・ハディ・ダグラスAbd Al-Hadi Daghlas、ヤシン・ジャッラドYassin Jarrad、ヤザン・ナビル・ジャラダYazan Nabil Jaradaの支持者だった。これは、かつてアフガニスタンで起きた(ザルカ出身者)数十人の殉教に続くものだ」。

ザルカ出身者は、アフガニスタン・ヘラートのキャンプで飛び抜けた存在だった

uザルカウィが(ジハード戦士)グループの野戦指揮官になったのは(アフガニスタンの)ヘラートに設立された(軍事訓練)キャンプだったようだ。ザルカ出身のジハード戦士は彼等の運動の歴史を語る中で、このキャンプに繰り返し言及した。

uサラフィー・ジハードの潮流に従う人なら誰でもうなずく事実がある。アフガニスタン・ヘラートのキャンプが、今日のイラクにおけるザルカウィ組織構築の主要なエピソードであるということだ。ザルカウィは1999年アフガニスタンに入り、その年に同組織を創設した。彼が入ったヘラートのキャンプは、中核メンバーの大半がザルカ市出身者だった。例えばアブド・アル・ハディ・ダグラス、カレド・アル・アルーリKhaled Al-'Arouri、ヤシン・ジャッラドなどだった。パレスチナ人のダグラスは最近イラクで殺害された。アルーリは現在イランに身柄拘束されている。また、ジャッラドはザルカウィの二番目の妻の父親だ、ザルカ在住のジハード戦士によると、ジャッラドこそ(2003年9月イラク・ナジャフで)自爆攻撃を行い(イラク・イスラム革命最高評議会=SCIRI=最高指導者)ムハンマド・バキル・アル・ハキームMuhammad Bakr Al-Hakimはじめ数十人のイラク人を殺害した人物という。

uヘラートのキャンプを設立する考えは、アルカーイダから独立した指導部を望む数百人のアラブ人戦士が存在するという(仮説に)基づいていた。これらアラブ人戦士はヨルダン人、パレスチナ人、シリア人、それに少数のレバノン人だった。彼等はアルカーイダとは若干の信仰上の違いがあった。そのため(アルカーイダ最高指導者)オサマ・ビンラーディンOsama bin Ladenに忠誠を誓うことができなかった。(アフガニスタンのイスラム過激政党タリバンの最高指導者である)ムッラー・オマルMullah Omarは(独立したキャンプを設立するという考えに)同意した。オマル師は、ムハンマド・アル・カライレMuhammad Al-Khalayleh(ザルカウィの本名)が同キャンプの指揮官になることを条件に、これらアラブ人戦士にヘラート近郊の土地を分け与えた。

同キャンプのメンバーだった「アリー」によれば、同キャンプの戦士達は「ザルカウィの指導のもと純粋なムハージルーン(注2)の生活を送っていた」という。

ザルカウィの組織:クウェートからヨルダンに移住したパレスチナ人の過激シェイク(宗教指導者)達から構成された

u調査報道」は次のように指摘する。1990年のイラクのクウェート侵攻と翌年の湾岸戦争後、パレスチナ人25万人がクウェートからヨルダンに移住した。この現象は「クウェート帰り」と呼ばれた。「ヨルダンの専門家や研究者の計測によると、ヨルダンに移住した難民のうち実に約16万人がザルカに集まった。専門家達は、これらパレスチナ人難民のヨルダン帰還と、同国、とくにザルカにおけるサラフィー・ジハード風潮の隆盛との関連を指摘する。

u調査報道」によれば、「クウェート帰り」現象はヨルダン人の間で、同国の多地域における「社会変化のターニング・ポイント」になったと認識されている。ヨルダン大学のヨルダン研究センターは1993年はじめ、この問題で調査を行った。この調査で「(ヨルダンの)若者達がそれまでの世代の若者達よりもより保守的になった、彼等の多くが一夫多妻制を支持し、少女教育よりも少年教育を優先するようになった」ことが判明した。

クウェートからの帰還者の中には、「ジハード潮流に属する多くの人々がおり、その頭がアブー・ムハンマド・アル・マクディシ師Sheik Abu Muhammad Al-Maqdisiだった。(本名は)イッサム・ムハンマド・タヘル・アル・ブルガウィIssam Muhammad Taher Al-Burgawiと言う。クウェート在住のパレスチナ人だったマクディシは、ヨルダン帰還後、同国のジハード潮流の精神的指導者になった。また、それ以前の1989年ザルカウィの先生になった。

u(マクディシは)パレスチナ人のオマル・マハムード・アブー・オマルOmar Mahmoud Abu Omarとともにクウェートからアフガニスタンに向かった。オマルはアブー・カタダ師Sheik Abu Qatadaのあだ名で知られる。マクディシはアフガニスタンからクウェートに戻ると、その後ヨルダンに移住した。一方、アブー・カタダはロンドンに亡命した。両人ともヨルダンにおけるサラフィー・ジハードの主要な権威の源となった。

uクウェートからの帰還者の中にはまた、ザルカウィ組織のイスラム法学の権威アブー・アナス・アル・シャミAbu Anas Al-Shamiやアルカーイダの軍事(テロ)部門幹部アブー・クタイバAbu Qutaybahがいた。シャミは数カ月前バグダッドで殺害された。ザルカウィ組織の傑出した指導者の1人ガジ・アル・タウバGhazi Al-Tawbaもかつてクウェートに住んでいた。

uこうした人々がザルカウィを頭にしてサラフィー・ジハード運動の中核を構成した。彼等がザルカのマアッスームMassoum地区のモスクで顔を合わせたのは、1990年代半ばのことだった。

ムスリム同胞団の影響

u調査報道」で、ヨルダン、とくにザルカでサラフィー潮流が強まったもう一つの要因に1970年9月の事件があることも判明した。この事件は、ヨルダン軍がアンマンとヨルダン諸都市のパレスチナ人難民キャンプからパレスチナ(ゲリラ)諸組織を駆逐した(事件で、ヨルダン内戦と呼ばれる)。(アラブ世界の主流イスラム原理主義組織)ムスリム同胞団はこの戦いでフセイン国王(当時)を支持し、その報酬としてヨルダン教育省に対する発言権が与えられた。以後何世代ものヨルダン人が、ムスリム同胞団が監督したカリキュラムで教育を受けた。これに果たした教育省の役割はよく知られている。

u1982年アブダッラー・アッザムAbdallah ‘Azzamを頭とするムスリム同胞団メンバーがヨルダン(渓谷)アル・アグワル地区に(主流パレスチナ・ゲリラ組織)ファタハが設立した設立したキャンプに参加した。同キャンプに参加した同胞団メンバーは(ムスリム同胞団のイデオローグ)サイイド・クトゥブSayyid Qutb(1906-66)の影響を受けた人たちで、その中にはアフマド・ナウファル師Sheik Ahmad Nawfalやディブ・アニス師Sheik Dib Anisがいた。このため同キャンプは『シェイクのキャンプ』と呼ばれた。これ以後、これらムスリム同胞団の「クトゥブ潮流」内ではサラフィー主義が増大し、以後同胞団から距離を置き始めた。同潮流を率いたアッザムは、後にアラブ・アフガンズ(ビンラーディンらアフガニスタン戦争のイスラム義勇兵を指す)のシェイクとなり、ビンラーディンの先生になった(注3)・・・。ヨルダンのイスラム諸運動を調査研究したハッサン・アブー・ハニッヤHassan Abu Haniyyahによると、これらシェイク達がサラフィー主義に感化されたのは1960年代に遡る。シリア人シェイク、ナセル・アッディン・アル・アルバニNasser Al-Din Al-Albaniの講義をザルカの複数のモスクで受けたのが契機という。

マクディシとザルカウィの共同作業

u調査報道」はまた、現在服役中のマクディシとザルカウィとの関係を検証している。「マクディシは1991年クウェートからの移住者としてヨルダンに到着した。当時、彼のことを知っていたのはサラフィー・ジハードのサークル、中でもアフガニスタンで彼と会い、または彼の噂を耳にした数百人のヨルダン人だけだった。マクディシがアフガニスタンを訪れたのはジハードを戦うためだった。

uヨルダンに帰還したマクディシが組織化を開始した潮流の中核となったのは、アフガニスタン帰りのパレスチナ人とヨルダン人で、ザルカウィはその1人だった。ヨルダン人ジハード主義者はこの時期を「ダアワ(イスラム教の宣教)の始まり」と言う。また、彼等によると、マクディシの(宣教)巡回はアル・ルセイファ(パレスチナ難民)キャンプのマクディシの生家からスタートした。マクディシはヨルダンの様々な町に住むジハード主義者の家を尋ねたが、しばしばザルカウィが同伴したという。さらに「調査報道」はこう言う。「元サラフィー・ジハード主義者は、当時ダアワは(アラブ)諸政権のタクフィール(背教者だと断罪すること)に専念、またムスリム同胞団への反対に専念した、と語っている」

u調査報道」によると、1994年にヨルダンがイスラエルと和平条約を締結したことで、「サラフィー・ジハード運動は育成の新たな水源を得た。サラフィー・ジハードの元活動家の指摘だと、この間、数十のジハード地下組織が台頭した。ある時友人達から彼等の組織に参加するよう何度か勧誘された。しかし、彼等は全く知らなかったが、この元活動かはその間ずっと別の組織のメンバーだった。彼がこの組織に入っていたのは5年間に及んだが、その間、この組織が治安機関に摘発されることはなかったという。

uヨルダンで設立された地下組織の中で最も傑出した組織は、たぶん、マクディシとザルカウィが創設したバイアト・アル・イマームBayat Al-Imam(イマーム=導師=の忠誠の誓いの意)組織だった。(同組織の)設立後しばらくして、ヨルダンの治安機関がマクディシとザルカウィ所有の武器と弾薬を摘発した。この結果二人は1999年まで投獄された。服役中二人は、わずかとは言えない数の活動家を組織することができた・・・。二人の他囚人達との関係では、ザルカウィの腕力に訴えるやりかた、それに彼が犯罪者の世界に精通していることが役立った。犯罪者の世界は、ザルカウィが青年時代に過した世界だった。

u同様に、刑務所の外の(マクディシとザルカウィの)支持者達は二人との面会をやめなかった。二人に手紙を届け、また二人の手紙を配った。マクディシが服役中に書いたファトワ(イスラム法判断)、と(イスラムの)遺産に関するエッセイと書籍は約100册にも達した。マクディシの支持者達はこれらの書籍の名前を誇らしく何度も口にする。

uザルカウィはまた服役中(1999年の)刑務所出所の際自分の助けとなるコネクションのネットワークを築いた、また、出所後数ヶ月間を掛け再びアフガニスタンに行く準備をを行ったようだ。今回の同伴者は、ヨルダンの刑務所で服役していた(部下)数十人、それに刑務所外で彼の出所を待っていた人々だった。

u(ザルカウィの)かつての仲間によると(ザルカウィが)最後にヨルダンを出国した時(ヨルダンの)治安機関はまったく注意を払わなかったという。この時はまだ9・11テロが起きてはいなかった。また、ザルカウィが仲間のグループを引き連れてヨルダンを離れることは、ヨルダン治安当局にとって一種の救いでもあった。

u調査報道」によると、「アブー・オスマンAbu Othman(と呼ばれ人物)はこう語っている。マクディシの性格は親切で善良だった。人と対決するタイプではなかった。一方、ザルカウィが刑務所の中で示したのは、力強さとタフネスだった。アブー・オスマンによると、ザルカウィは刑務所内で他の囚人達から忠誠の誓いを得た。これは彼の部族的性格によるところが大きかったという。ザルカウィはまた対決タイプだった。刑務所で彼の回りに集まった若者達はまさに(対決タイプの)ジハード戦士だった。そのためザルカウィの力強さと決断力を好み、マクディシが軍事指導者であることを拒絶した。彼等はまた、ザルカウィが(自分達の)イマーム(導師)なら、マクディシに余分な時間ができ、独立したイスラム法の裁定(イジュティハード)や(宗教上の)研究にふけることができるだろうと考えた」。

イラクにおけるザルカウィの戦法

ジハード戦士によると。「ザルカウィはアメリカ人とイラク人に対する戦いで、治安門愛を含め(イラク)バアス党員の経験を使った。アハマドAhmad(と呼ばれる人物)は、ザルカウィはとりわけファルージャでそうだった明言する。(事実)ファルージャの戦いにはイラク軍の元諜報担当将校らが加わった。彼等は豊かな治安部門の経験を持っていた。また、これら元諜報担当将校のうち数十人がザルカウィに忠誠を誓い、世俗的な元政権と絶縁した・・・」

u調査報道」はイラクにおけるザルカウィのジハードの道をめぐってマクディシとザルカウィの間に論争が持ち上がったこと、同論争に対するジハード戦士らの反応に触れている。マクディシは最近書いた論説で、「イラクにおける弟子ザルカウィの振る舞いに関し留保を表明したからだ(注4)。

uこの論説に、ザルカウィを『神の奇蹟』とみなしている若いジハード戦士達は怒った。彼等にとって、誰であれ、さらにはザルカウィの先生でありガイドであるマクディシですら、ザルカウィが過ちを犯したと考えるのは異端行為だ。

u調査報道」はまたこうも伝えた。「ムハンマドMuhammadと呼ばれる人物は、自分は刑務所にシェイク(マクディシの意)を訪れて、仲間の団結を害すること(の執筆)は避けるよう頼んだと語った」。


注:

(1)ロンドン発行のアル・ハヤート紙2004年12月14ー5日付け

(2)ムハージルーンとは(西暦622年)預言者ムハンマドとともにメディナに移住した教友達のこと

(3)「調査報道」はまた、「アブダッラー・アッザム自身、(アンマン)大学で勉強するためアンマンに移る前、ザルカに住んでいた」と指摘している。

(4)2004年7月マクディシは自分のウェッブ・サイトに「ザルカウィーー支援と忠告」と題する論説を掲載した。マクディシはこの中で次のように述べた。 u私は次のことを言い、また強調する。私は今日イラクで吹き荒れている混乱を聞き、またフォローしている。彼等がこの混乱という手段によってーー自動車爆弾を爆破し、道路に爆発物をセットし、また、通りや市場、ムスリムが集まる場所に迫撃砲弾を撃ち込むことによってーー望んでいるのはジハードを傷つけ、その栄誉あるイメージを傷つけることだ。 ジハード戦士の手はきれいなままでなければならない。害を与えてはいけない者達ーーたとえ彼等が反逆者で恥知らずであろうともーーその者達の血によってジハード戦士の手を汚してはならない・・・。 あなた方はまた(イスラム法上)違法な(戦闘)手段を選択してはならない。あるいは、適切な選択——ジハード戦士が好む適切な選択に反する手段・方法を選択してはならない。 あるいは、こうした手段を専制者の犯罪への対抗策に含めてはならない。それは、例えばムスリムの中に暮らす者達をイスラム法に基づかない口実ーー不信者支援やムスリム侵害への支援の(レベル)に達していないにもかかわらず、彼等が不信者のために働いているという口実で、誘拐し殺害して(イスラム)法の限界を超えることだ。参照 http://www.abu-qatada.com/r?i=2979&a=p


 

 

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